比類なきアート
この比類なきアートを前に何かを書こうとする時、書き手は誰しも身体が竦みます。「モダンジャズ」というカテゴリーが生み出した最高到達点『KIND OF BLUE』は、すべてを音楽によって表現し、その純度があまりに高いがゆえに一切の雑音を寄せ付けないからです。
『KIND OF BLUE』において最も感じなければならないことは、音楽に選ばれた人や瞬間があるのだということ、音を出す技術や才能、知識だけでは到達し得ない境地、「音楽に選ばれる」ということがあるのだと知ることです。
例えば映画でもそういう現象がおこります。北野武監督が好例です。映画に造詣が深いとか、歴史の再現に費用を費やしたとか、その世界で苦労してきた、または映画が好きだということとは違う、映画に好かれている人だけが映し出すことのできるフィルムがあります。「芸人さんの撮った映画」だとか「容姿の好き嫌い」「監督としてのキャリア」などの知識に簡単に曇らされるレベルの低い感性は、自分に観る力がないことを棚にあげて映画をテレビドラマ化し、音楽ならばBGM化する悪しき原動力となります。
だから、このアルバムには日本語のライナーノーツを付けないで欲しかった。「マイルスがモード手法を完成させた名盤中の名盤」、「1960年代を占う先駆け的アルバム」云々などという陳腐な見出しを読まされると怒りがこみ上げてくるのです。
60年代を占う? 具体的にどこだ? モード奏法云々を最初に書くことが、音楽を感じる妨げになるとなぜわからないのか? そもそも『KIND OF BLUE』はそういう「文脈」で捉える表現から最も遠い場所にいる音楽じゃないか? セザンヌの絵画のように生成変化(無常)を捉え、鉄斎の水墨画のように一瞬かぎりを封じ込めた類稀な芸術だろう。どこをどう聴いたらライナーノーツの真っ先に60年代の先駆け的アルバムなる言葉が書けるのか? 「このアルバム」という代名詞的表現すら「文脈的すぎる」ゆえにできないほど、一瞬かぎりのアートなのではないか? だからそれをこそ真っ先に伝えるべきではないか?
日本語だと読む気があまりなくとも目に入った瞬間に読めてしまいます。洋盤の場合は英語ですから無視できるのでまだ救いがあります。これから『KIND OF BLUE』を聴こうと心を構えた人には邦盤は買ってはいけないと強くいいたい。
さらに、ボーナストラックをつけるとは何事か。「音楽に選ばれた5曲」を聴く貴重な経験を無に帰すような暴挙には空いた口が塞がりません。
発売から半世紀以上を経た現在も売れ続けるジャズ界一のベストセラー『KIND OF BLUE』(不思議この上ありません)。まずは、ジャズの奏法や歴史、音楽理論を最初に語るライナーノーツなどの言葉、レコード会社の暴挙などなど、『カインド・オブ・ブルー』を曇らせる様々な雑音を取り除きましょう。これが大切です。そして取り除いたら、ただ、聴いてください。何かを感じたら、次へと進みましょう。
- SO WHAT(Miles Davis)9:22
- FREDDIE FREELOADER(Miles Davis)9:44
- BLUE IN GREEN(Miles Davis)5:35
- ALL BLUES(Miles Davis)11:33
- FLAMENCO SKETCHES(Miles Davis)9:23
レーベル:COLUMBIA
録音:1959年3月2日、4月22日、ニューヨーク、コロンビアスタジオ
- Miles Davis:trumpet
- John Coltrane:tenor sax
- Julian “Cannonball”Adderley:alto sax(3曲目を除く)
- Bill Evans:piano(2曲目を除く)
- Wynton Kelly:piano(2曲目のみ)
- Paul Chambers:bass
- Jimmy Cobb:bass